CALLシステム利用者の声
 

CALL教室の終焉

森 祐司(言語文化部 英語教育講座)

1.はじめに

 反テクノロジー思想の自然派気取りの森がまたコンピュータ批判を始めた…などと思わないでいただきたい。私は子供の頃から珍妙からくり(gadget)大好き少年で、今は携帯電話と電子辞書に夢中である。さてどうやって使おうか…
 コンピュータが導入されることで、出席はもう点呼する必要もなく自動的に記録を取れるとか、学生がちゃんと勉強しているかどうかモニター(盗み見、監視)できるといった「利点」は、からくり好きにとってはどうでもよいことだ。10人定員のクラスにすれば出席管理も監視も意味はない。コミュニケーションの場である教室にコンピュータが備わればコミュニケーションのあり方自体が変化する筈だ。学習ソフトの開発により自習する方法が格段に進歩することは喜ばしいことだが、少なくとも「教室」という名をつけるからには教師と学生、学生同士の人間関係に深く関わるからくりとしてコンピュータを見ていく必要がある。
 もし全面的に自習の場になるのなら、それは「自習室」なのだからCALL教室はなくなる。もしCALL教室が教育というコミュニケーションの場であるならば、今黒板(緑板、ホワイトボード…)がない教室がないように、あるいは筆記用具を持参しない先生や学生が稀であるように、やがて近い将来(案外遠いかも…)すべての教室にコンピュータが導入される日が来るであろうから、やはりCALL教室はなくなる。
 本年度4月よりCALL教室を使い始めたばかりの人間が実際的な提言や提案などできるはずもないのであるから、「たら」「れば」の希望的観測に基づく夢のような話として「すべての教室がコンピュータ室になることでCALL教室がなくなる日」を語りたいと思う。ありきたりの話です。

2 様々の授業形態

 大正生まれで旧制中学しか出ていなかった私の父にとって、授業とは先生の話をしっかり書き写し先生の板書を正確にノートすることだったようだ。定年退職し、戦争と貧困によって断たれた学業の道を取り戻そうと、いわゆる生涯教育の一環として市が提供する「市民大学」に参加した父は、「下校」するなり母と私に教師と周りの学生とへの不満をぶちまけた。講師として招かれたお偉い大学教授は、ほとんど黒板を使うことなく「ただただ自説をだらだらと述べる」だけだ。周りの学生はといえば、「まだ若いくせに」ぼーっとその話を聞いているだけ。向学心があるのは自分だけだと言わんばかりに自慢げに見せる「大学ノート」にはびっしりと先生の講義がノートしてあった。「ノートに覚えさせてどうなる。頭に入れなさーい!」
 当時こちらも大学生だった私は、父から見ればぼーとした若者の一人だったはずだ。講義と言えば教師の話し方の癖やら雑談やらだけにやけに気を取られ、ノートはと言えば、「結局…なにがいいたいやらよーわからん…まあ「屋根裏の狂女」なんてことを考えた方がこれからの文学研究の可能性があるって言いたいのか…わしゃ「森の中の森」ってなことにでもすっか…」といったような教師へのまぜっかえしやらたわ言やら分からないようなメモが残っているだけである。
 ただ、私は、たとえ講義ノートのようなものを読むだけの授業でも、板書もせずハンドアウトも配らずただただとつとつと(これが大切です。すらすら読まれた日には聞いていてもついていけない…)語るだけの授業が好きであった。黒板を頻繁に使う教師はまだよかった。飛び散る白粉には参ったが、稀に書き写すとしても板書のスピートにはまだついていける。その頃最先端のテクノロジーのひとつであったOHPを多用する教師には腹が立ちさえした。流暢に解説を加えながら次々に資料を提示していく授業に、私の頭は完全にストップモーション。教師としては手を汚すことなくたくさんの情報を伝達できる利点に悦に入っていたのであろうが、聞く方としてはきれいな空気の代償として頭で意味を結ぶことのない視覚聴覚情報の洪水に晒されることとなる。当時「マルチメディア」を駆使した画期的教育システムであったLL教室では、居心地よくもあり悪くもあるブースの陰で、マイクを通してヘッドホーンから指示される様々なタスクを適当にこなしながら、関係のない本を読む時間が持てた。

3 CALL授業の教師としての私は…

 CALL教室での授業を始めて数ヶ月、機械操作等の面ではTAとしてお手伝いしてくれている院生の皆さんに大いに助けられている。すでに、ほとんどの学生はコンピュータを使うこと自体には何の抵抗もない様子で、いわゆる「技術的な」問題はおそらく極々近い将来なくなっていくだろう。つまり、コンピュータは、教室において、黒板、OHP、マイク、テレビ、ヴィデオデッキ、カセットデッキ等の教育機器のみならず、教師の講義ノート、ハンドアウト、学生にとってのノート、筆記用具、それに不届きな学生の内職の道具にまでもなっていくであろう。問題はすでに「いかに使うか」ということになっている。
 不慣れなCALL授業を補うために現在私は自習用英語学習ソフトを一部の授業で取り入れている。読解力を中心にトレーニングする英語510の授業であるが、学生は画面に次々とタスクが流れていく形式の速読養成ソフトに黙々と取り組んでいる。聞いてみると、「おもしろい」「画期的だ」「自分のペースでできる」等まことに好評だ。「こんな授業の形式が理想であった」…
 その間私は、「何か質問があれば自由に呼び出しなさい」と言っては、ただ座っているか、手持ち無沙汰で部屋をぐるぐる回るか。「理想的」で「画期的」な授業では、教師は必要ない。教師は、期限と範囲を指定した小テストを施すことによって学生の進捗状況をチェックする。
 このような形式の授業を本当に「授業」と呼べるかどうかは問題であるが、教師の役割のひとつとして学生に自学自習を促すことは大切な要素である。ただし、コンピュータ化がさらに進み、学内でも家庭でも自由に自主学習できる状況が整えば、何も授業の中でこれをする必要はなくなるだろう。つまりは、「宿題」をどんどん出して、それをチェックするという「厳しい」先生の道具がふえる。学生には嫌われるかもしれないが結果的に語学力を伸ばしてくれるいい先生がふえる。今の私のように授業でそれをする先生は「手抜き」と呼ばれるであろう。
 他の科目を教えていらっしゃる先生方はどのようにお考えだろうか…先に述べた経験から、私は、できるだけ効率よく、できるだけ分かりやすい形で授業を展開することには少なからず抵抗がある。比較的無批判で従順な受験生であったせいだろうか、当時の受験参考書の「はしがき」で必ずと言っていいほど強調されていた「学問に王道なーし!」とか「自分で納得するまで何度でも!」とか「教わるより覚えよ!」といったような忠言がその後の人生においても頭から離れない。教師は、学生から「あいつ…いったい何が言いたいんだ…」「どうしたらあいつの話が分かるようになるんだ…」と思われることが大切だ。語学などでは教師がいくら流暢に知識や語学力をひけらかしたって結局教わる側の頭に入っていかなければ何にもならない。この意味で、自学自習を促すような授業は重要だ。自習ソフトによる学習は、その「おもしろさ」が新鮮である限り大いに効果を上げるだろう。ただし、たとえどんなに優れた参考書を使っていようともそれを「やり込む」努力としっかり身につける根性とがないものは成績が伸びない。コンピュータを使えば「誰もが」100パーセント「すべてを」身につけられるわけではない。やがて新鮮さが失せると共にやはり効果に対する疑念も浮かんでくるだろう。  
 すべての教室がCALL教室になるとき、今の私は黒板も使わずとつとつと講義するだけの偏屈な教師と同じになってしまっているかもしれない。それでも実のある話ができるなら、かつての私のようにそんな授業が「おもしろい」と感ずるようなひねくれた学生もいるかもしれない。ただし、講義に交えて的確なハンドアウトを配り、要所を要領よく板書し、ポイントとなる点をうまく引き出すような質問をしながら、学生の様子を観察しつつ授業を進めるような教師になる努力を惜しんではいけないと思っている。それらのことをすべてコンピュータを使ってできるような時代が来ているのであれば、それをうまく利用する努力を惜しんではいけないと自らを戒めている。