業務及び研究の報告

大規模計算科学部門
Large-Scale Computational Science Division


1.部門スタッフ

教授 菊池誠
略歴:1986 年3 月東北大学大学院理学研究科物理学専攻後期課程修了、1987 年2 月大阪大学理学部物理学科助手、1993 年8 月同助教授(改組により、現在、大阪大学大学院理学研究科)、2000 年4 月より、大阪大学サイバーメディアセンター大規模計算科学部門教授。日本物理学会、日本応用数理学会各会員。理学博士。

助教授 時田恵一郎
略歴:1994 年3 月東京大学大学院理学研究科相関理化学専攻博士課程修了、1994 年4月大阪大学理学部物理学科助手、2000 年4 月より、大阪大学サイバーメディアセンター大規模計算科学部門助教授。日本物理学会、アメリカ物理学会、数理生物学懇談会各会員。理学博士。

2.研究概要:学際計算物理学の推進

大規模計算科学部門では、統計力学や非線形動力学の理論を基礎とし、計算機シミュレーションなどの計算物理学的手法を用いて、物理学と生物学や工学との学際領域の研究に取り組んでいる。現在の研究テーマはタンパク質の折り畳みとデザイン、生態系の進化、高速道路交通流などである。
 また、計算科学の分野では計算手法の開発も重要な課題である。我々の部門では、その中でも特にモンテカルロシミュレーションの拡張(拡張アンサンブル法) について、精力的に研究を行っている。さらに、新しい自由な計算環境構築を目指して、PCクラスターの運用実験も進めている。

3.研究成果

3.1 タンパク質の折れたたみとデザイン

タンパク質の折れたたみメカニズム解明は生物物理学の基本的問題のひとつであり、タンパク質の生体内での機能を理解する上でも重要である。タンパク質の計算物理学的研究としては、一方には第一原理的に天然構造を予測するという大目標があり、多くの研究者が主として全原子模型を用いた分子動力学計算に精力的に取り組んでいる。我々のグル-プでは、それとは少々異なった立場から、構造予測ではなく、折れたたみ過程そのもののメカニズムに重点を置いた研究を進めている。手法も全原子計算ではなく、格子模型やバネ・ビーズ模型などの粗視化されたモデルを用いた計算機シミュレーションを用いている。特に格子模型の熱平衡状態計算については、我々が開発してきた新しいモンテカルロ・シミュレーションの方法(Multi-Self-Overlap Ensemble 法) が今のところ世界最強の計算手法である。

折れたたみ過程への非天然的相互作用の役割

我々は特にbeta-lactoglobulin と呼ばれるタンパクの折れたたみ過程に注目している。この蛋白質は阪大蛋白研の後藤グループなどで精力的に実験が行われており、β シート主体の天然構造(up-down-beta-barrel 構造) を持つにも関らず、折れたたみの中間状態では相当量の非天然的なαヘリックスが形成されることが明らかになっている。それに対して我々は、up-down-beta-barrel構造を持つ格子模型(図はその天然構造を表す)を用いて、その自由エネルギ-構造を詳しく調べている。本年度の成果としては、非天然的なhelix を作りやすい相互作用を人為的に導入すると、折れたたみ過程の遷移状態が変化し、かえって天然状態を探索しやすくなる可能性を示した。これは最近の実験をよく説明する。また、apomioglobin やBPTI などのタンパクを対象として、バネ・ビーズ模型による分子動力学シミュレーションを行い、実験で見られている折れたたみ過程との比較を行った。

タンパク質デザインへの力学的アプローチ
望みの形の天然構造を持つタンパクを自由にデザインすることも、タンパク質研究の大きな目標のひとつである。我々は、”デザイン方程式”という方法を用いた力学的アプローチを提唱している。残念ながら実用にはまだまだ遠いが、基本的概念を深める方向で研究を進めた。

3.2 大規模生態系モデルのシミュレーション絶滅ダイナミクス

数理生物学を中心とする様々な分野で研究されている生態系もモデル(レプリケータ方程式系)に絶滅の効果を組み込むことにより、種数(方程式の次元)が時間に依存して変動するような一般的なモデル(絶滅ダイナミクス)を構築し、そのパラメータに対する依存性を調べた。このモデルはオリジナルのレプリケータ系とは非常に異なる振舞いを示し、特に系が非常に大きな種数を持つ初期状態に置かれると大絶滅を引き起こす。絶滅が起こるかどうかは系に与える絶滅のパラメータの定量的な差異には依存しないことなどが示された。また、絶滅のあとに残る種数の少ない(少数自由度)の部分系の頻度分布が唯一のパラメータのみに依存する特徴的な分布になることが明らかになった。大きなランダムな種間相互作用をもつ系の発生起源として、「生態系融合仮説」を提唱し、古生物学における大絶滅の理論に数理的な基礎を与えることを試みた。

同所的種分化のダイナミクス
絶滅ダイナミクスに中立的な種分化のメカニズムを組み込むことにより、巨大で安定な生態系が生み出されることを示した。これにより、大規模で複雑な種間相互作用を持つ系は数学的には安定には存在しえないという、いわゆる「生態系のパラドックス」に反例を示した。提案した新しい同所的種分化のモデルは以下のような特徴的な振舞いを示した。(1) 種分化は中立的な突然変異体の種数が増大することにより促進される。(2) 互いに共生的な突然変異体の小グループの個体数が急激に増大することにより固定が起こる。(3) 最終的に構成される系は、共生的な相互作用を持つ。(4) 最終的に構成される系は、全く別の種の侵入に対する抵抗力をもつ。(5) 種分化を通じて階層的な系統が構成される。(6) 構成種の個体数の分布は自然で観測される特徴的な分布となる。以上の知見を通じて、表現系における中立性と多様性の関係を論じた。図は種数が時間とともに増大する様子を表している。

3.3 高速道路交通流の数理とデータ解析

高速道路上で見られる交通流のふるまいは、一次元非線形動力学の問題として一部の物理学者の注意をひいている。我々は、この問題に対し、数理モデルの構築と計算機シミュレーションを行っている。一方、シミュレーションの正当性は結局観測事実との整合性でしか言えないことから、現実の高速道路交通流で得られる観測データの解析にも力をいれており、計算と観測(データ処理) の2方向から交通流の問題にとりくんでいる。
 我々は主として、最適速度模型と呼ばれる連立2階微分方程式に基づく車両追従モデルを結合写像の立場から離散化したCMOV(coupled-map optimal velocity) 模型を提唱し、これまで、いくつかのシミュレーションを行なってきた。今年度は特に、2車線系のトンネル上流部でみられる渋滞形成を念頭において、研究を行なった。渋滞の形成や道路特性の基本図(q-k 図)、車線利用率の車両密度依存性、といった”マクロな” 量や現象については、CMOV 模型が現実の観測データをよく再現することが確かめられた。
 観測データとしては、東名高速道路上数ヶ所で取得された一年分のデータを入手し、詳細な検討を行っている。日本坂トンネル上流の観測点でのデータからは、渋滞発生直前に追い越し車線の挙動が急激に変化するなどの興味深い知見が得られている。膨大な観測データを視覚的に整理して、シミュレーションと有機的に結びつけるための解析ツールの開発も進行中である。

3.4 モンテカルロ・シミュレーションの新技法の開発

温度一定のアンサンブルを構成するために、従来メトロポリス流のモンテカルロ・シミュレーションが使われてきた。しかし、最近になってカノニカル(温度一定) ではないアンサンブルへの興味が高まり、特に、シミュレーションで人為的なアンサンブルを構成した後、得られたアンサンブルから温度一定アンサンブルを再構築するという、いわゆる”拡張アンサンブル”の方法に注目が集まっている。我々のグループは”拡張アンサンブル”の先導的な研究グループのひとつであり、特に格子ポリマーをターゲットとした拡張アンサンブル法に重点を置いて研究を進めてきた。その成果として既に上述したMulti-self-overlapensemble 法を提案し、成功を納めている。
 本年はMulti-self-overlap ensemble の思想を一般的な最適化問題へ拡張し、巡回セールスマン問題への応用を試みた。原理的に正しい方法なので、正しい結果は得られているが、効率の問題をはじめとするfine tuning はこれからである。また、”好きな変数”をコントロールする人為的アンサンブルも幾種類か試みた。これは格子タンパク模型の自由エネルギー景観を調べる場合や、異なる境界条件のあいだでの自由エネルギー差を求める場合などに威力を発揮することが明らかになった。従来の”温度を与えて手を放す”シミュレーションから、”積極的にコントロールする(しかし、最終結果は正しい温度一定アンサンブルになる)”シミュレーションへの流れは、今後も続くはずである。

3.5 PCクラスタの構築(待兼山計畫)

 我々は、自由な計算環境構築を目指して、主にシミュレーションを用途とするPCクラスタを自作・運用している。2000 年は28 台のDual Celeron 495MHz マシン(56CPUs)で構成した(Machikaneyama Cluster)。安価なCPU(Celeron300A) をオーバークロックして使用し、部品を個別に購入して組み立てを行った(OSはFreeBSD を使用) 結果、対費用効果の高いシステム(同速度のAlpha ワークステーションの約10倍) を構築することができた。整数主体のシミュレーションでは同クロックのPentiumII やAlphaワークステーションよりも速い場合があるなど、大規模シミュレーションにおけるPCクラスタ自作の有効性を示した。また、システム構築を通じて、大規模PCクラスタ運用に関する様々なノウハウを蓄積してきた。  今年度は、さらに25 台のDual PentiumIII 952MHz クラスタ(Machikaneyama 2 Cluster) が加わり、運用テストを行っている。Machikaneyama 2 の1 ノード当たりの計算能力は、Machikaneyama Cluster の約2倍である。参考までに、構成の概念図を掲載する。
 各ノードは比較的低速なネットワーク(100BaseTX) で結合されているが、主用途がノード間通信のほとんどないパラメータサーチなどのシミュレーションであるため、低速LANはデメリットとはならない。対費用効果の高いPCクラスタを構成するためには、その用途を限定することが重要である。

4.学会などに対する貢献等

 菊池は日本物理学会WWW小委員会委員、基礎物理学研究所計算機委員会所外委員、「物性研究」(各地) 編集委員として、学会に貢献している。また、一般向け科学書の書評を通じて、社会への科学普及活動も行っている。国際会議、国内研究集会、学会シンポジウム等の世話人や組織委員としての活動には以下のものがある。
(菊池) (時田)

4.1 研究協力

 小さい研究グループであるが、学内・学外の研究者と積極的に研究協力を行うことにより、研究の活性化を計っている。学外共同研究者は伊庭幸人(統計数理研)、岡部豊(都立大理学部)、杉山雄規(三重短大)、只木進一(佐賀大CS)、安富歩(東大総合文化)、湯川諭(東大物工) の各氏、学内では阿久津泰弘(理学研究科物理)、茶碗谷毅(理学研究科数学) の各氏である。また、理学研究科物理学専攻博士課程学生として千見寺浄慈、巽理恵の二氏が研究に参加してくれている。

4.2 研究助成金

  1. 平成11(1999) 年~平成12(2000) 年科学研究費基盤研究(C)「生態系および蛋白質モデルによる進化の力学と論理」(代表:菊池誠、分担:茶碗谷毅、時田恵一郎)
  2. 平成12(2000) 年~平成13(2001) 年科学研究費奨励研究(A)「蛋白質等のヘテロ高分子の設計問題に関する理論的研究」(時田恵一郎)

5.論文・口頭発表等

5.1 解説記事

  1. 只木、菊池、杉山、湯川「交通流の科学」日本物理学会誌Vol.55 No.3 (2000)

5.2 原著論文

  1. George Chikenji and Macoto Kikuchi, ”What is the role of non-native intermediates of β-lactoglobulin in protein folding?”, Proc.Natl. Acad. Sci. 97 (2000) pp. 14273-14277

5.3 国際会議会議録

  1. Kei Tokita, Macoto Kikuchi, and Yukito Iba,”Dynamical Equation Approach to Protein Design”, Prog. Theor. Phys. suppl. 138(2000) pp.378-383
  2. Macoto Kikuchi, George Chikenji, and Yukito Iba, ”Multi-Selfoverlap-Ensemble Monte Carlo Method for Lattice Proteins and Heteropolymers”,Prog. Theor. Phys. suppl. 138 (2000) pp.404-405.
  3. George Chikenji and Macoto Kikuchi, ”A Lattice Model Study of α → β Transitions in Protein Folding”, Prog. Theor. Phys. suppl.138 (2000) pp.406-407
  4. Rie Tatsumi, George Chikenji, Yasuhiro Akutsu, and Macoto Kikuchi, ”The Relation among Thermodynamic Stability, Folding Dynamics, and Designability” Prog. Theor. Phys. suppl. 138 (2000) pp.420-421
  5. Kazuhisa Kaneda, Yutaka Okabe, and Macoto Kikuchi, ”Effects of Shape and Boundary Conditions on Finite-Size Scaling Functions for Anisotropic Three-Dimensional Ising Systems” Prog. Theor. Phys. suppl. 138 (2000) pp.458-459
  6. Macoto Kikuchi, Yuki Sugiyama, Shin-ichi Tadaki, and Satoshi Yukawa, ”Asymmetric Optimal Velocity Model for Traffic Flow”,Prog. Theor. Phys. suppl. 138 (2000) pp.549-554
  7. Shin-ichi Tadaki, Macoto Kikuchi, Yuki Sugiyama, and Satoshi Yukawa, ”Congestion in Multi-Lane Roads with Coupled Map Traffic Flow Model” Prog. Theor. Phys. suppl. 138 (2000) pp. 594-595
  8. Shin-ichi Tadaki, Macoto Kikuchi, Yuki Sugiyama and Satoshi Yukawa, ”Congestion in Multi-lane Coupled Map Traffic FLow Model”, in M. Tokuyama and H. E. Stanley ed. ”Statistical Physics” (AIP, 2000).

5.4 口頭発表(招待講演・一般講演)

  1. 時田恵一郎, 安冨歩, ”絶滅、侵入および中立突然変異を通じたモデル生態系の進化”,第20 回計測自動制御学会システム工学部会研究会「人工生命の新しい潮流」(2000年2 月)
  2. 菊池誠, 時田恵一郎, 茶碗谷毅, ”待兼山計畫”, 日本物理学会2000 年春の分科会(2000年3 月)
  3. 千見寺浄慈, 菊池誠, ”βラクトグロブリンの折り畳みにおけるα→β転移II”, 日本物理学会2000 年春の分科会(2000 年3 月)
  4. 時田恵一郎, 菊池誠, 伊庭幸人, ”ヘテロポリマーの設計問題III” 日本物理学会2000 年春の分科会(2000 年3 月)
  5. 只木進一, 菊池誠, 杉山雄規, 湯川諭, ”なぜ高速道路の追い越し車線は走行車線より混んでいるか”, 日本物理学会2000 年春の分科会(2000 年3 月)
  6. 湯川諭, 西成括裕, 只木進一, 杉山雄規, 菊池誠, ”交通流はカオスか?” 日本物理学会2000 年春の分科会(2000 年3 月)
  7. 時田恵一郎, 安冨歩, ”中立突然変異が促進する生態系多様性の進化”, シンポジウム複雑系:理論と新技術? 人文・社会科学、工学、自然科学の交流(2000 年5 月)
  8. 時田恵一郎, ”創発システムの設計原理? 協同現象を利用するために?”, 第44 回システム制御情報学会研究発表講演会(SCI2000)(2000 年5 月)
  9. 時田恵一郎, ”へテロポリマー設計に対する力学的アプローチ”, シンポジウム複雑系:理論と新技術? 人文・社会科学、工学、自然科学の交流? (2000 年5 月)
  10. 時田恵一郎, 菊池誠, 伊庭幸人, ”タンパク質設計に対する力学的アプローチ”, 第3 回情報論的学習理論ワークショップ(IBIS2000)(2000 年7 月)
  11. 千見寺浄慈, 菊池誠, ”タンパク質の折り畳みにおけるノンネイティブ相互作用の役割”, 日本物理学会年会(2000 年9 月)
  12. 巽理恵, 千見寺浄慈, 阿久津泰弘, 菊池誠, ”分子動力学法を用いたタンパク質モデルの折りたたみ”, 日本物理学会年会(2000 年9月)
  13. 只木進一, 菊池誠, 杉山雄規, 湯川諭, ”二車線交通流模型による隘路上流の渋滞形成”,日本物理学会年会(2000 年9 月)
  14. 千見寺浄慈, 菊池誠, ”タンパク質の折り畳みにおけるノンネイティブ相互作用の役割”, 日本生物物理学会年会(2000 年9 月)
  15. 菊池誠, ”境界を侵犯する50 の方法”, 基研研究会「モンテカルロ法の新展開2」(2000年10 月)
  16. 時田恵一郎, ”タンパク質の設計問題:創発的順問題を内側に含む創発的逆問題”, 第6回創発システム研究交流会講演会(2000 年10 月)
  17. 只木進一, 菊池誠, 杉山雄規, 湯川諭, ”トンネル上流の渋滞形成?2 車線モデルと実測の比較”, 第7回交通流のシミュレーションシンポジウム(2000 年11 月)
  18. 湯川諭, 西成括裕, 只木進一, 杉山雄規, 菊池誠, ”東名高速道路観測データからの知見(その2)” 第7回交通流のシミュレーションシンポジウム(2000 年11 月)
  19. 時田恵一郎, ”蛋白質のデザインおよび進化:生命と物質の間のボトルネックを抜ける”, 研究会「複雑な多谷ポテンシャル上で生起する動力学的諸問題-力学的決定性と統計性の中間領域を探る- 第1回」(2000 年11 月)
  20. 千見寺浄慈, ”格子蛋白質模型の自由エネルギーランドスケープの解析方法論と適用例”, 蛋白研セミナー「タンパク質立体構造の分類・予測・デザイン」(2000 年12 月)
  21. Shin-ichi Tadaki, Macoto Kikuchi, Yuki Sugiyama, and Satoshi Yukawa, ”Coupled-Map Traffic Flow Model for One-Lane Expressways with Blockades”, Conferenceon Computational Physics 2000 (CCP2000)(Dec. 2000, Austraria)
  22. Shin-ichi Tadaki, Macoto Kikuchi, Yuki Sugiyama, and Satoshi Yukawa, ”CongestedTraffic Flow on Two-Lane Expressways”Conference on Computational Physics 2000(CCP2000) (Dec. 2000, Austraria)
  23. Yuki Sugiyama, Macoto Kikuchi, Shin-ichi Tadaki, and Satoshi Yukawa, ”Asymmetric Optimal Velocity Model for Traffic Flow”Conference on Computational Physics 2000(CCP2000) (Dec. 2000, Austraria)